人種差別

2019.10.1 (火)

 例えば人種差別の問題というものがあるとする。ほとんどの場合よくよく考えると人種というものは非常に分かりづらいもので、おそらく人種を定義できる人間はいないと思われる。私の友人にメキシコ生まれで小学生の途中から日本にやってきたハーフの友人がいる。彼は半分メキシコ人ではあるが、彼の血はメキシコを植民地化したスペイン人である。スペインの血でメキシコに生を受け半分メキシコ、半分日本で育っている。日常的に彼が何人であるのかを意識したことは、少なくとも私はない。外国人の犯罪について彼と話しているときも、私は彼を外国人だと思っていない。
 同様にして私にはかつて韓国人の恋人がいた。彼女との共通言語はドイツ語だった。私は彼女とドイツ語を通して意思疎通をはかり、共通の友人はドイツ人や韓国人や日本人や、はたまたドイツ人と日本人のハーフやドイツで生まれ育った(ドイツ語しか話さない)日本人やドイツ人とアメリカ人のはハーフやトルコ人やいろんな人の中で生きていた。お互いに自国の言葉が全く理解できなかった。結婚するという話になったとき、お互いに自国に戻るは嫌だなという話になった。出会って愛し合って生活したその地がふるさとであり、片方の自国を愛せるとは思えなかったからだ。つまり私はその地で付き合っていた恋人が韓国人であるとは思えなかったし、思ったこともなかった。
 村上春樹の「中国行きのスロウ・ボート」の中の中国人のように、中国についての体験は個人的になればなるほど、中国という言葉自体の印象や意味が崩壊し別の意味として定着する。そこにはニュースで報道されている中国はもはやない。そもそも人種とは一般的な概念であって我々の体験ではない。
 私は人種差別の通り一遍等な議論が嫌いだ。日韓の摩擦が続く中で私は同僚の朴さんと二人でカレーを食べる。朴さんはナンのおかわりはしないし、このランチ多すぎ!という。インド人の店員が(いや、もしかしたらパキスタン人かもしれないしネパール人かもしれない、それはわからない)が、お箸をもってきてくれる。カレー屋のお兄さんと朴さんと私は特にお互いの国のことなんて考えずにカレーを食べ終える。人種の枠を乗り越えたか?と言われると、よくわからなくなる。枠があるのも知らなかったし乗り越えるべき山や谷や崖や峠がそもそも見つからなかったというのもある。