古代後退と呪術社会

2019.4.28 (日)

 日本が世界の先進国であり司法が正しい判断をするというのは幻想である。7年間以上も裁判で一人の人間を蹂躙し病死させるということは日本の権力は可能なのである。国家の権力に関して日本人の意識は薄い。同性同士さえ結婚(つまり身元の互助制度・生活を支え合うサポート制度)ができないという社会において日本はそれほど先進国ではない。日本人はそこそこ間抜けな民族でありそこそこ知性と民度が低い。国民総中産階級と自称していた時代があったが、そのような時代はない。貧富の差が騒がれるが問題は知性の差、教育格差であると私自身は思っている。彼等、日本という国家権力はある意味バカになっている。わからないことに関して判断するという間抜けなことを病的にやってのけるのが国家権力であり、またその無責任さだ。その中で無念の中で死んでいったものは何も古い日本の歴史の中での話だけではなく現代も同じだ。
 WikipediaにはWinny事件として全貌を見ることができる。ファイル共有ソフトの開発が、著作権のあるコンテンツの違法取引に幇助したという理由で開発者・プログラマーを逮捕するという事件だ。足利事件と同様に非常に幼稚な内容の裁判だ。司法に関わる人間、国家権力に関わる人間達がよってたかってこのような判断を容易に行うということ自体が実に幼稚だ。まるで精神遅滞の障害者が健常者の裁判をしているように見える。つまり判断できない連中が立派に判断しているということである。Winnyのファイル共有の仕組みと現在のビットコインにみれらるブロック・チェーンの仕組みは殆ど同様であり、そもそもはハッシュが持つデータの正当性を共有するという技術は、ファイル改ざんのハッシュとして開発の履歴として暗号化の技術として様々な側面で利用されている。そういった簡単なことが理解できないのである。裁判の内容はエンジニアサイド、開発者サイド、多少知性のある人間からすれば見るに値しない。実に稚拙で誰がみても最初から無罪とわかるからである。Winnyがインターネットの世界でこのようなアイディアを最初にはじめたというだけで生贄になったという中世の魔女狩りほど呪術と迷信に満ちた裁判だった。判決のドキュメントの内容も見るに耐えなく、まるで小学生が考えたロジックと知識のように見える。
平成21(あ)1900 著作権法違反幇助被告事件 最高裁判所第三小法廷 判決
言ってしまえば、包丁の生産においては生産者自身が殺人事件が起きないように考慮しなくてはならないといった内容だ。このようなバカバカしい裁判が数多く行われている。喉の食物をつまらせて死に至ることはごく頻繁にあるが、有罪になるのはこんにゃくゼリーでありさとうの切り餅ではない。勿論殺人事件が起こる度に包丁職人が殺人幇助で逮捕されることも裁かれることもない。金子氏のみがこのような生贄になるのはITの知識不足や専門性の欠如ではなく日本の文化的な水準が低いのである。誰もが何かを盲信する習慣とその学校教育だ。一部の人間(いや概ね殆どの日本人がそういった意味でまともではない。)
 かつてインターネットは危険であるということがしたり顔で言われていた時代がある。80年代後半90年代前半はそんな時代だった。もちろんネットワークは非SSL化、パスワードは平文という時代があり確かに危険な時代があった。商用・ビジネスというものにはまだまだ耐えられないという時代だ。しかしそれらの技術の拙さを鑑みた上でもそれも尚呪術的であり占い的であり冷静な判断ができなかった。人間は未知の理解不可能な事物に関しては異常な反応を示す。現代が古代を笑っている場合ではないぐらい後退する。そしてその後退をヒステリックに体現している人間達によって世論、民主主義がつくられると思うと寒気がする。

P2Pの技術

 情報の共有が中央集権型であるというのはいったいどんな利益があるのか? フーコーは「監獄の誕生─監視と処罰」(1974)で、イギリスの功利主義哲学者ジェレミー・ベンサムが考案した監獄「パノプティコン(一望監視施設)」にもとづいて、近代社会のあり方をパノプティコン社会と見なした。中央を通る情報をフィルタリングし統制しコントロールする。これらは特に我々の遠い世界にある話ではない。Twitterのアカウント凍結、差別用語の撤廃などの言論統制や思想統制。インターネットという社会ではそれらの中央集権化をリスクとして回避し、そもそもは軍事的に中央のデータが破壊されても通信を可能にするTCP/IP網をつくったわけだが、これらのネットワーク設計をフルに利用した情報共有の仕組みP2Pというものを開発した金子勇は単独で日本社会で吊るし上げられた。二律背反( Antinomy)を正しく理解するのは非常に難しい。むしろ困難なのかもしれない。しかしその前にAntinomyという概念を理解しなくてはならない。実際にAntinomyを理解するにはその人間の情動をコントロールしなくてはならないときがあるからである。
 Winnyというソフトで実際に行われていたことは確かに違法な売買、または著作権などを無視した闇取引であると言われば金子氏の開発は罪に値するのかもしれない。しかし、彼の開発した技術の根底にあるものは各ネットワークノードが正しい情報を常に保ちお互いの情報を確認し合う「仕組み」でありシステムである。原爆を投下した米兵が罪かどうかという問題でその彼、クロード・イーザリーは最終的には精神錯乱に陥った。「軍という巨大な機械の中の一本のネジ(26歳の軍人として”使命”を遂行されたときのあなたは、まさにこの一本のネジだったのです。)を相手にして、その責任を追求しようなどと考えているものは、これら生き残った人びと(※広島の人びと)の中にはただの一人もいません」という書簡をユダヤ人哲学者ギュンター・アンダースが残している。また、「あなたのことを憎んでいる人間など、一人だっていないのです」(「ヒロシマ わが罪と罰」筑摩書房)など、彼本人に罪はないという世論が圧倒的に優勢ではあった。技術や組織においてその責任というのものは果たしてどこに着地点があるのかというのは、もはや哲学的な問題だ。司法や既存の法律で処理できる問題ではない。核融合や核分裂を発見し実用化した技術者を断罪することができるだろうか。自明の理であると思われるだろうが、日本はWinnyの裁判に7年以上も費やし、金子氏の職種を事実上奪った。今では誰もが鼻で笑う魔女狩りをこの民主主義社会でも平気で行われているのである。ひょっとして民主主義社会は未だ魔女狩りの文化で支えられているのかもしれない。