哲学とは何か

2019.10.19 (土)

 哲学とは何かといった場合に日本語ではそれらを解きづらいというのが悩ましいところであり、哲学は所詮Philosophyの当て字として西周(にしあまね)という人物が作った人工的な言葉に過ぎない。現代ではすでに哲学という言葉はむしろ不要でPhilosophyについて考える方が的を得ているかもしれないし、ヨーロッパの言葉を研究するのはそんなに難しいことではない。しかし、西洋の文脈を育んだPhilosophyは、もしかすると極東の謎の国の言葉で語られることによって大きな意味を持つかもしれない。日本語の「自由」という言葉の意味がFreedomとはかけ離れた意味合いになっているように哲学とPhilosophyはもはや全く別物であるから、Philosophy=哲学ということに厳密に規定するならば少しばかりは語る価値があるだろうと私は思う。つまり西洋人になってしまえばよいのだ。しかし別の側面では、あるいは私がネイティブとしているこれらの地域、つまり日本といわれているここら近辺にはロラン・バルトが望んだようにPhilosophyでは語ることのできない別な何かを記述できる可能性すらあるのではないかと考えている。意識しようとしないとに関わらず日本人の感覚は世界的に見ても非常に奇異で特殊な部分がある。哲学を記述できる可能性は少なからずある。
 ニーチェの善悪の彼岸の冒頭は「仮に女が心理だとすれば、どうであろうか?」とある。

Vorausgesetzt, dass die Wahrheit ein Weib ist -, wie? ist der Verdacht nicht gegründet, dass alle Philosophen, sofern sie Dogmatiker waren, sich schlecht auf Weiber verstanden? dass der schauerlicheschauerliche Ernst, die linkische Zudringlichkeit, mit der sie bisher auf die Wahrheit zuzugehen pflegten, ungeschickte und unschickliche Mittel waren, um gerade ein Frauenzimmer für sich einzunehmen?

 かつての哲学者達が大真面目に語ってきた諸々を嘲笑したような言い草で大胆に挑戦的にはじめる。実際はWeibではなく「セックス」であった方がよかったのかもしれない。しかしこれは現代においては完全に男性側からのみの視座でおもしろくない。嘲笑的でもなく大胆でもなく、むしろ色あせている。トランスジェンダーがこれだけ堂々と生きれる社会になった現代に真理が女であること自体がナンセンスだ。

視座の多様化問題

 哲学の課題はいつの時代でもその課題設定と問いそのものにあるとされている。しかし今この「課題」と「問い」を投げかける場所(視座)がすでに見失われている。見失われているのではない。当時ニーチェが生きた時代のヨーロッパという時代が見ていた世界観というものには、例えば日本人は含まれていない。彼には日本が見えていなかったし、レヴィ・ストロースが世界中の奇妙な民族の探索を始めるまで世界の一部しか見えていなかった。今現在我々が見えているものは、限りなく広くなりテクニカルになり公平になった。その気にさえなればどんな情報でも取り寄せることができるだろう。目に見えない問題を拾い上げるという課題設定自体のミッションが失われていないにしても、何を真実として何に対して問いただすことができるのかというと非常に難しい問題になる。当時はコンピューター科学から世界を捉えるという概念すらなかったわけなのだから。ミッシェル・フーコーが医学から世界を捉えるとき、人間が持つ世界に対しての眼差しとそのトンチキな誤解と思い込み、そういったものがまざまざと明るみになって私自身は(非常に個人的な意味で)具合が悪くなった。人間の生命を扱うこの医学という分野でさえも今も尚、当時の錬金術的な不気味な試行錯誤が行われていることを認めるのは非常に勇気を必要とすることだった。
 あらゆる意味で哲学が人間を中心にした学問であり、それ以外のものを中心に据えた哲学には距離をとった方がよいという名言があるように哲学は人間に所属するものであり人間の問題を取り上げた学問であることにはかわりがないとしてもチューリングが言うように「人間に等しい」ものに関してはもしや本当に人間かもしれない可能性があり、この先ひょっとして我々は哲学においては人間に等しいそれそものもを扱わなくてはならない可能性がある。つまり人間は、人間に似たその何者かに対して、情報を交換し、親しみ、頼りにし、裏切られ、尊敬されたり蔑ろにされたり、心配したり安心したり、揺さぶられたり、終いにはセックスしたり戦争したりする可能性すらあるとすれば、それは人間に等しい何かではなく、人間そのものではないのか?かつて神学が哲学との境目を失いかけたときも限りなく人間に近い神を取り扱った学問であったし、仏教ですら現実(だったと思われる)ある人間、ゴータマ・シッタルダの教えであり、哲学はいつの時代でも人間について扱ってきたのだ。だがしかし、この先未来には我々は人間ではないものをその範疇に収めなければ、哲学の体系さえ保てない自体に発展するかもしれない。我々は怪しげな新興宗教のように人間ではないものについて深く洞察しなくてはならない時代になるのかもしれないのである。エヴァという映画では人工知能が最終的に人間を殺したという物語ではあったが、その殺し方そのものがあまりにも人間的であり、ある種人間性を失った人間よりももっと人間らしい知能が人間を殺めた。人間はもっとよりよくなるために自由を求め、もっと未来を見据える。
その中で起きた殺人の人間らしさ。
 サルトルが言ったヒューマニズムとはいったい何を定義していたのか、という問題に対して私達はすでに無頓着ではいられない。