格差

2019.7.27 (土)

 貧富の差を語る前に我々が前提としなくてはならないのは、第一にその格差という状態を感情抜きに主観で見ようとする試みが必要であるということと、第二にその原因を突き止めようとしないこと及び誰かに罪を被せないこと。そして最後に貧富の差を生んでいるのは取りも直さず、こういった視座から我々のほとんど(殊にこのテキストを読んでいる階級のあなた)が生み出しているという事実を真摯に受け止めることであると私は思っている。つまり貧富の差が生まれるのは貧富の差という一つの社会的な発明であり、その発明によって豊かな社会を作っているのである。強いて言うなら我々は(少なくとも中産階級以上の人々は)そのような社会を作り上げている当事者であり、その当事者であることを踏まえて涙を流したり平等社会を叫んだりする者であることが大前提となる。もしこういった前提でなければ、このテキストを読む意味はない。
 貧しい者に付随する悲しい物語(歴史)とともに当事者とは関係なくカタルシス的な悲しい感情をいだき、生クリームのたっぷりのったケーキを食べているような人間が貧富の差を語る者のほとんどであり、もっと豊かになろうとしているという事実である。いわゆる経済的な格差を語るときに必要なのはそれらの単純な感情ではなく大いなる情報収集とその情報に対する意思、つまりあなたの考える主観である。主観はありとあらゆるユニークな視座と新しい考え方を我々に与えてくれる。ステロタイプな関心はまずもってほとんど不要である。それらは短期的な薄っぺらいモティベーションを保つのに役にたつかもしれないが、ほとんどの場合、無益であると同時に主観的な考え方を疎外する。そしてそれらの人間は食いすぎてダイエットするぐらいの傲慢さで生きているというわけだ。実際のところ貧富の差に関心がない。
 原因の追求や罪を誰かに押し付けないという約束は「私」以外の場所に原因があり、「私」以外の場所に罪があると考えるからである。もしかりに私に原因があり私に罪がある場合は、往々にしてそのロジックを変更しなくてはならない。または放棄しなくてはならない。我々にはそんな勇気はない。貧富の差は我々のどこか知らないところからやってきて知らない世界で大変悲惨なことになっているという意識はむしろ貧困社会を考えるうえでは罪である。金で寄付をするキリスト教社会の方が偽善といてはまだましである。