すでにそこにいる者と他者

2019.4.6 (土)

「怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。 –146節」

Wer mit Ungeheuern kämpft, mag zusehn, dass er nicht dabei zum Ungeheuer wird. Und wenn du lange in einen Abgrund blickst, blickt der Abgrund auch in dich hinein.

 ニーチェが非常にラディカルな哲学者であるという誤謬がある。彼の哲学は革命的ではあったが文学的ではない。私自身は、彼は遠くから事物を見つめる観察者であり傍観者であると思っている。遠くから傍観し辛辣な言葉を発すること自体に違和感がある。ひょっとしたらこういった種類の人間はいつの時代でも遠吠え的に安全圏で好き勝手なことを言っている部外者であり他者である。当事者ではなく事物に決してコミットしない。これにくらべて文学の力は圧倒的だ。そこには観察も客観性も理性も論理も皆無である。

「ある朝、グレゴール・ザムザが気がかりな夢から目ざめたとき、自分がベッドの上で一匹の巨大な毒虫に変ってしまっているのに気づいた。」

Als Gregor Samsa eines Morgens aus unruhigen Träumen erwachte, fand er sich in seinem Bett zu einem ungeheueren Ungeziefer verwandelt.

 気取った表現がない。教訓もない。説教めいた言動もない。ただ奇妙で不思議で決して後戻りできない破壊的な状態を述べているだけの強烈な文章だ。実際にこのドイツ語の語感は日本語でいうところの古語に近く現代のドイツ人が一般的に使っている言葉に比較して形式張っている。その硬い表現が余計に強烈だ。当事者というのはそういうものである。ニーチェが正常であることを保とうとしている矢先にカフカはすでに変身してしまった自分を描く。ここには大きな違いがある。やろうとしている人間とやったことのある人間(すでにやってしまった人間)、それになろうとしている人間とすでにそうである人間、他者と当事者の違いは歴然としている。この部分に関しては私自身のテーマにさえなると思っている。つまり、いつまでも事物に憧れている空虚な人間と、すでにそこに存在しそこにいることにすら気づいていないかもしれない当事者、だ。

 事物の出発点はいつも何かを始める意思にあるのではなく、すでにその中にいることから始まるというのが私の考えている本質だ。想像し近づき訓練しそれになろうとすることは本質から遠い。その者(物)になろうとしている人間はすでにそれその者(物)になっているのがその本質である。客観性という卑怯な手段を豊富に行使できる者とその術中の中で解決策を見出そうとする者、その状況の真ん中で考えて行動する者は大きな差異がある。イギリスの詩人W.H.オーデンの“Leap before you look”とはまさにそういうことなのだ。あなたの世界観が中心に世界は動く。この世界にあなた以外の中心はない。もし仮にあなたが中心ではないとしたら、あなたは怪物にならぬよう気を使い、深淵にも足を踏み入れぬ空虚な人間になるだろう。命題として我々のその位置はいつも望んでいようがいまいがあなたのお好みの場所に立っているわけではないということである。それは圧倒的に運命的ですらあるし圧倒的な人生の一回性とも言える。そこから逃れることはできない。
 他者としての視点は限りなく無責任であると同時にいつも饒舌だ。それは非常に科学的であり卓越な比喩と表現力とその言葉の量で事実を圧倒する。何故なら事実の内(なか)に存在する当事者は非常なるマイノリティーであるため圧倒的に傍観者が量として多く、その視線(無責任・饒舌・科学的乃至論理的・卓越な比喩・表現力・言葉の量)は傍観者の視座にたった理屈であって決して当事者の事実ではないからだ。反対に当事者の矛盾、その時間軸でみたタイムライン上の一回性、恣意的な表現、遷ろうその事実と変容が客観的な視点への説明として成功した試しはない。仮にカフカの「変身」が小説ではなく論文であったなら、それはこの世界の事象の記述として成立できない。現在のところ我々の世界に成立している事象の記述は科学という真実と物語という虚構に分離していてそれらは相なれない。そして虚構の世界から描かれた事実はあまりにも少ない。

 テキストは通常事実を扱うべきなのか?虚構を扱うべきなのかという議論はおそらくビハインドしている。扱うべき有用なテキストはおそらく虚構に近い事実である。安心していられる事実を繰り返し述べることに意味はない。